阪神・淡路大震災から20年

平成7年1月17日 私は芦屋市緑ヶ丘町に住んでいました。 地鳴りの音と共に激しく揺さぶられて廻ったような・・・ 上階のおじいちゃんが「ガス管が壊れている、火をつけないで」と云いにきてくれました。 復興支援の動きは比較的早く、新潟県水道局の給水車も来てくれていました。 でも、排水管が壊れていて口をすすいだ水を吐き出す事はできませんでした。 災害から20年が経ち、復興住宅の高齢化率50%越えの記事を読みました。身の回りの方が亡くなったり、 勤務先が消滅、事業再開のメドが立たないなどを経験されたなら、その喪失感、絶望は 癒えることはないと思います。 私が今あるのはのは、家族が元気だった事、勤務先の被害が少なく、その月のお給料がもらえたことでした。また、当時は老後の社会参加の形を考えてる時期で、平成4年に兵庫県や尼崎市から発行されたの高齢者の「生きがい調査書」を読みました。その中で「持病のない人は75歳くらい まで自立して生きて行けそう」という記事を読み、定年後の転職を考えました。 20年間、粘り強く生きて来られた方の、あの時、そして今、生きるために必要なことをお聞きしたい気持ちで いっぱいです。今度同じよな災害に会えば・・・乗り越える気力が湧いて来ないような・・・

20年間捨てられない水容器

20年間捨てられない水容器

定年後の「生きがい」を考えた資料

定年後の「生きがい」を考えた資料

阪神・淡路大震災から20年」への6件のフィードバック

  1. 私も震災が話題になると当時のことが嫌な思い出になって
    落ちこみます。でもそれが1つの原動力になります。
    これからもよろしく。3月1日発売の「大人組」に隔月雑誌に
    載ります。また本屋で立ち読みしてください。

  2. お客がいないときテープから流れる先生の声を聴いていると
    懐かしさがこみ上げます
    お会いできていたころは、充実していましたね

    • HP見ました。すご~い。急成長。元気をいただいています。
      「お気に入り」に入れました。

      雪の粟倉は単車で移動ですか?気を付けてくださいネ。

      2月2週目から五行易テキスト実践編作成&グルメで
      少々の過食をめざす事にします。
      年末年始、風邪で食欲が落ちた時、気力も落ちました。
      食べたい気持ちも大切なんですネ。(@_@;)

  3. 先日は、ご連絡遅くなりました
    無事メールは届いていますでしょうか?
    あわくらは雪の中です 毎回雪かきから始まります

  4. 震災時直ぐに家を飛び出し園に走り大物辺りで余震が有り園にたどり着いたが職員が定時出勤者が多く腹が立った事を思い出します。今再び地震が有れば平均寿命が過ぎた私は飛び込んででも、この世とサヨナラしたいと思って居ます。あの世の神様も嫌がり癌病を呼んで呉れません、困った現状です

  5. 日付、時間を見てびっくり。
    追悼行事に参加されたのでしょうか?本当にあの日を境に
    価値観がひっくり返りました。自分を束縛していたものから
    解放されました。元気、命があって良かった。まだやりたい事が
    あります。もう1回転職。命尽きるまで前進します。

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